サジ家の四男として生まれる。3,860g。2月26日生まれ。
サザンの桑田さんやキングカズと同じ誕生日らしい。
兄たちとは歳が離れているけど、
伯母たちもの同年に男の子が生まれ、いとこ3人同い年。
今思うとクセのある複雑な家庭だったが
末っ子だからかあまり気にせず育つ。
何故か煎餅を縦に食べている写真が多数あり。
決して裕福ではない家族だったけど、
魂だけはサジ家のものを身につけられて良かったと思う。
生まれもっての鼻炎と痩せた身体に苦しむが、足は速かった。
絵や漫画を描くことが好きで、マンガの連載を多数描いて
ひとりで少年ジャンプのようなものをつくっていた。
兄たちの影響で音楽が好きになり、ロックを聴きながら小学中学時代を過ごす。
技術や美術の授業が好きだった。
美術の授業でオルゴールを作ったとき、6曲くらいの往年の歌謡曲
「愛は勝つ」や「浪漫飛行」などから好きな曲を選べたけど、
クラスで自分ひとりだけ「愛という名のもとに」(浜田省吾)を選んだ。
(「愛という名のもとに」があったのもすごいけど)
高校の文化祭でバンドをやるなぞ恥ずかしいことをする。
リハで歌い過ぎて本番で声が出なかった覚えがある。
入部したバレーボール部ではパッとせず、
受験生にも関わらず部活を引退してから草野球チームをつくる。
数学が得意だったけど、理系は女子が少ないという不純な動機で文系に進む。
文系のみんなに数学を教えていい気分。
受験が近づくと、現実逃避したくなり不真面目な生活をしてしまう。
そんな中、闘病中だった母がセンター試験の3週間前に急逝する。
親不孝中だったため、本当に申し訳なくショックを受ける。
母のおかげで将来を考え始め、そこから受験勉強する。
経営者気質の家族の影響か、将来は起業したいと思い
愛知大学の経営学部に進む。
学生なのにスーツで営業まわりのアルバイトをしたりとちょっとマセたことをする。
このころのバイト仲間は皆大手企業に入り出世し、今でもいい影響を与えてくれる。
お金もないのに車だけは欲しくてローンで中古のセリカを買う。
途中、家庭の都合で学費が払えなくなり、気がついたら滞納で除籍される期日を過ぎていたこともあったが、学生課の方のご好意でなんとか奨学金をもらい除籍を免れる。
なんとなく就活期間に入ったが、授業などで影響を受けた広告業か、経営を学べるコンサル業に就きたい想い就活を始める。ちょうどIT革命の時代だったこともあり、ITコンサルができるところに勤めようと考え、NTTデータに就職が決まる。
内定が出てから知ったが、愛知大学でNTTデータの内定を受けたのはそれまでになかったそうで、大学から取材を受ける。
就職活動が終わってヒマしているところに、人手が足りないと兄の勤めていたスタジオに呼ばれ、はじめて広告写真の現場を見る。(初日から徹夜の撮影で驚いた。)
その他、家庭教師やビリヤード場などで働く。
就職のため上京。
名古屋で働くと思ったら東京勤務しか選択がなく、一瞬にして東京のサラリーマンになる。
セリカも連れて行くが、駐車場代が高く2年で泣く泣く手放す。
企画や営業の部署を志望したが、開発担当に配属される。
かろうじてブラインドタッチができる程度なのに、レガシーシステムで動くアセンブラをLinux用にC言語でプログラミングしなおすという謎の指令が出る。
はじめはまったく意味が分からなかったが、これが数学的なところがあって意外とプログラミングが面白くなる。
そうした頃、いろいろあって実家がなくなる。
開発がひと段落ついたところで、事業部長に何度も直談判し、2年目としては異例の希望による異動で企画・営業の部署に就く。
ソースコードばかりを追いかけていた日々から、Excelでの利益計算とPowerPointでの提案書づくりの日々に変わる。
企画をして損益計算し、社内伺いと対外用提案書を作成するなかで、資料のビジュアルによってプレゼンのしやすさや相手への伝わり方が劇的に変わることに面白さを感じ、やたら資料づくり(デザインと文章)にこだわるようになる。
もちろんチームでの動きだけど、自分の資料とプレゼンで何億や何十億のシステムの受注が取れたことが自信につながる。
25際で結婚。入場の時に自分でカメラを持ってみんなを撮った。
この頃、無性にウサギが飼いたくなり、ホームセンターでウサギの可愛さを妻に見せつけロップイヤーのACO(アコ)を飼う。
ACOはアコースティックギターから名付けた。最初「アコギ」にしようと思ったけど可愛くないと反発にあい、アコにした。
チームで企画したシステムのデモ機のプレス発表にあたり、前述のスタジオバイトの後から趣味になっていたカメラで得意げに撮影し、日経産業新聞(だったかな?)に掲載されて味をしめる。
年末年始の連休に鼻中隔湾曲症の手術を受け、幼い頃から苦しんでいた鼻炎が軽減されて世界が変わる。
この頃から社内の研修制度を利用して、コンサルや事業企画・企業などの内容のものをたくさん受講する。
部署内でフットサルが流行し、会社帰りや週末に不慣れなサッカー姿になる。フットサルシューズと間違えてスパイクを買うくらい素人。
ライブドア事件が起きる。
まったく事業内容は異なるが、IT企業として考えるところがあった。
豊洲の本社ビル26階から見ていた東京の夜景が、崩れていくような感覚になった。
うつむきがちな満員電車がすごく嫌いで、ずっと上ばかり見ていた。
そこには車内広告があり、それが唯一の癒しだったりもした。
特にサントリーの広告が好きで、その広告があるとずっと見ていた。
提案書と一緒で、広告が良いとその企業が好きになるもんだな、とある時ふと思った。広告制作は企業の価値を上げるためのコンサルティングなんだと感じ、どんな人が広告制作したのかが知りたくなった。そこから広告を見る目が変わった。
広告年鑑などを買って読んだ。これがまた高くて1万円ほどする。しかし面白く、穴が開くほど読んだ。
やはり好きなテイストの広告は同じ人が作っていることも多く、その人たちに強い憧れを持った。
特に写真家の名前は気になり、そのサントリーの広告を撮影した白鳥真太郎さんや瀧本幹也さんの作品に惹かれるようになった。
雑誌や写真集と違い、広告撮影した写真家の名前が一般的には出ないことが逆にカッコいいなとも思った。
一気に広告写真家になりたいという熱が高まり、たまたま日経新聞にちょこっとだけ記事が載っていた写真の専門学校に目がとまり、思わず初心者向けのコースに入学をした。
年齢問わずセンスのいい人ばかりが集まるなか、「カメラが趣味です」とか言っていた自分が恥ずかしくなるくらいド下手だと思い知らされた。絶対に上手くなってやると決心し、プロを目指す通年コースを申し込むことにした。
カメラの特徴をつかむために、いろんな撮影をしてみた。
写真の道に行く決意として、ずっと吸っていたタバコをやめる。
平日夜間+土曜のコースがあったので、上司に写真家の道に行きたい想いを告白し、まずは会社勤めしながら残業をほぼせず帰らせていただき、ダブルスクール状態で学校に通った。
もう20代後半だった自分は早く広告制作の現場に行きたいと思い、入学から3ヶ月ほどで転職先を探し始め、偶然にも広告代理店が持つスタジオのアシスタント募集の求人を見つけ早速書類と直筆手紙を送り、面接してもらえることになった。
まったくの未経験で若くもない人間なんて面接さえもしてくれないようだったが、カメラマンである社長は変な経歴のボクに興味を持ってくれて、素人のボクの話を聞いてくれた。
面接時に会社の実績を見せてもらい、そうそうたる広告を制作していることに興奮し、どうしても入社したくなった。
しかし、社長から逆に「立派な企業に勤めているなら絶対に”こっち側”に来ない方がいい」とカメラマンになるなんてバカなこと考え直した方がいいと説得されたが、もう会社に辞職願を出しましたと伝えると呆れられて入社させてもらえることになる。
ありがたいことにNTTデータでも上司が引き留めてくださったが、いつか必ず恩返しすることを心に誓い、退職させていただくことになる。
送別会の翌日から早速スタジオ勤務で生活が一変した。
日の出の時刻に集合し、終電の時間に帰るか、朝まで帰れないか。
一日中撮影の緊張感が絶えず、重い荷物を持ち、走りっぱなしの日々に疲れながらもその充実感がたまらなかった。
タレントさんやモデルさんをカッコ良く撮る社長や先輩、商品撮りをする先輩もすごくて、まるでついていけなかったけど楽しかった。当たり前だけどデスクワークでぬくぬくしていた自分は足がフラついてまるで役に立たずよく怒られた。
撮影が落ち着いている日は、デザインチームの文章校正をしたり、プロデューサーの補佐や社内サーバー環境の構築、お得意先や新規企業に先輩カメラマンを売り込む営業などもした。
ちなみに給料は前職の3分の1も無いくらい。妻には本当に迷惑をかけた。
まだ専門学校にも通いながらだったが、家にもロクに帰れない状態だったので学校も行けなくなった。
一番恵まれたのは、社長に直々にライティング(ストロボなどで光をコントロールすること)の指導をしてもらえたこと。何も分からない、センスもないボクに仕事を通じてすごく良く教えていただけた。入社してから知ったが、社長は長年有名な広告や女優の写真集を撮影してきた凄い人だった。本当に感謝。
ようやくスタジオ勤務にも慣れてきて、多少は自分の時間が持てるようになってくる。
平日は社長や先輩のアシスタントで、カメラのシャッターなんて触れることすらできないため、休日にこっそりスタジオに行って練習した。バレて怒られたこともある。
お金は無かったが小さなストロボを買い、こっそり週末に自宅でも練習した。
最初の頃はスタジオでのモデル撮影に憧れて、モデル事務所に電話したり知り合い伝いにヘアメイクさんやスタイリストさんを見つけて作品撮りしまくった。
練習を含めて、年賀状などもこだわりはじめた。
妻もフラワーアレンジメントをはじめていたので、お花で「おせち」をつくって撮影し、年賀状にしたこともあった。
ある時、ある広告撮影を日曜日に撮影しなければならなくなり、先輩カメラマンが全員都合が悪いことがあった。
作品撮りをしまくっていたからか、根拠のない自信があったボクは、ディレクターに撮らせてもらえないかと頼み込んで撮らせてもらえることになった。
広告というのはアートディレクターが思い描くイメージがあり、その背景やテイストに合わせたアングルを作り、モデルさんに表情やポーズを指示しながら撮影するのがカメラマンの仕事である。
その広告は人物の切り抜き合成の撮影だったが、背景に合わせるとなると逆光だけど右奥と左奥からくる光のニュアンスが微妙に異なり、さらに人物の手前はほどよいシャドウにする必要があった。
それを真っ暗なスタジオで一からストロボで作っていくのである。モデルさんに指示出しながら。たまらない。
早朝にスタジオに行き、夜も眠れずに考えたライティングを実践し、無事に撮影を済ませた。平気な顔して撮影したけど、ドキドキだった。
テンパっていたのでどんな媒体に載るのかも知らなかったけど、ひと月後に日経新聞で新聞15段(片側全面)に掲載されていた。
いつも読んでいる日経新聞に。たまらなく興奮する。
そしてその広告が広告賞を受賞した。
その後もロケハンだからと先輩の代理で行ったときに撮った写真が採用されてそのまま新聞広告になったり、ラッキーなことが続いた。
去年までIT企業でデスクワークしていたのに。信じられなかった。
運と環境に恵まれ、その後は次々と撮影の仕事をさせてもらえた。
広告にファッションに美容に料理。白ホリのスタジオにロケにハウススタジオ。
華やかな感じのものに多く関わらせていただき、撮影したものが世の中に出回っていることがとても嬉しかった。
もちろん技術的にはギリギリの状態でやっていたので、休日の練習や作品撮りは続けた。
しかしある時、誰かが「いいよな、カメラマンは写真だけ撮ってりゃいいから。」と言っているのを耳にした。
写真を撮るのだって大変な苦労があるんだぞ、とイッパシのことを思いながら、よく考えてみると確かに撮影するまでにはいくつもの工程があり、もちろん撮った後にも多くの工程を経て世の中に出る。
そして大切なのは、その広告によってどう効果が出たかである。
広告の効果は視聴率以外では測りにくいものだが、それにしても写真のことばかり考えてその効果を考えることをまったくしていなかった。
どうしても目立つのはカメラマンやアートディレクターやモデルさんだけど、その広告にかけるクライアントの思いや、営業さん含め関わる他のスタッフのことにあまり関心がなかったことに気が付いた。
ボクは写真を撮っているけれど、それは広告主さんのブランディングやプロモーションのためであって、当たり前だが自分の作品撮りというわけではない。
広告を見る人たちの心理もロクに考えずに、ライティングやアングルだけにこだわっていた自分が、何か勘違いしているダメな人間になっていることに気が付いた。
企業にいると目の前に撮影案件がドンと現れて、それがどんな紆余曲折を経てここに来ているのかも知らずに写真を撮り、その後誰が見てどんな効果が出たのかも分からずまた次の撮影に移る。
自分は自己満足のためだけに写真を撮っているのか。自分的に写真がうまく撮れたということでOKなのか。
しばらくそのことについて考えた。
そもそも自分は世の中の企業の役に立つためのコンサルをやりたくて、その手段として広告に関わろうと思ったのではなかったのかと。
大切なことを見失っていたことに気が付きかけた時、母が亡くなってから食事面でお世話をしてくれた名古屋の祖母と伯母がガンになり、要介護状態になった。
自分のやりたいことと、家族の状況を妻と話し合った結果、名古屋を拠点に仕事をすることを決意した。
どこが拠点でもできる仕事なので、いい職業だと思った。
素人にチャンスをいただけたスタジオと社長には本当に感謝している。
そして辞める直前に前職のNTTデータからお仕事をもらう。
人に恵まれて本当にありがたい。
新しい生活の前にひとつだけ妻にお願いをして、叶えてもらった。
それが世界一周である。
モデル撮影でもそうだが、何かと海外の方や、海外で修行して帰って来た人が多い業界なので自分も少しでもいいから海外に触れたいと思っていた。狭い日本の中しか視野がない自分のコンプレックスでもあった。
言葉は少ししか話せなくても、その土地のことをしていれば外国人モデルなどとのコミュニケーションも取りやすくなる。
コミュニケーションが取れれば表情も良くなり写真が良くなる。
そんな理由で世界各国を見て回ることにした。
せっかくだから楽しもうとブログを書きながらバックパッカーした。
近いしい人だけにブログのURLを教えていたけれど、ネットの力はたいしたもので、ブログを見て連絡をしてくれた方もいた。おかげでたくさんの人にも出会えたし、何よりも多くの経験ができたことで多くのことを考えることができた。
スタジオに勤めてから忙しくてなかなか一緒にいることができなかった妻とともに行った世界一周だったので、今までを取り戻すために思いっきりデートしたようにもなった。
アジア・ヨーロッパ・北米南米をまわり、出発から4ヶ月後に帰国、しばらく兄の家にお世話になりながら家を探し、本格的に名古屋に住むことになる。
ショッキングなことに、世界一周中に妻の実家にいたACOが急逝。
この夏の暑さに耐えられなかったのか、寂しくさせてしまったのか、自分勝手な行動にまた反省させられることになり、申し訳ないことをした思いで涙が止まらなかった。
その事実を知った1ヶ月後、なんと友人から捨てウサギをもらってくれないかと相談されるが悩む。
断ろうと思ったが、このタイミングに何か運命を感じて、数日じっくり考えたのちに承諾。
今度は絶対寂しい思いをさせないことを誓う。
最初、性別も分からなかったのでジョニーと名付けたら実はメスだった。
広告主さんに寄り添った写真と広告を作ろうと、「写真と広告事務所NoThrow」を設立。
NoThrow(ノースロー)とは、「投げ出さない」という意味で、実はC++というプログラム言語にもnothrowという関数がある。(かなりマニアック)
しかし、いきなりただの地元というだけの名古屋で仕事などあるはずもなく、しばらく兄のアシスタントをしていた。
東京でいろんなカメラマンを見たけど、そういえば兄が撮影しているところはちゃんとみたことがなかったなと改めて思った。
まずはその知識とセンスとポリシーに驚いた。本人には言わないが、おそらく今まで見たカメラマンの中で一番うまいと思った。全然知らなかったけど、名古屋では有名なカメラマンだった。
フィルムのことも教わり、中判のネガ撮影にハマり、50ミリブログをはじめる。
中判カメラが好き過ぎてずっと持っていた。でかいカメラを肩掛けで持って歩くという一見変な人になる。
そんな折、3.11が起こる。
仕事がないこともあり、余計なことばかりを考える日々の中で、被災地に炊き出しのボランティアに行くなどの活動をした。
今思えば、この国難の時に日本にいて少しでも手伝えてよかったと思う。
その後、介護状態だった伯母が亡くなり、寝たきりの祖母が一人暮らしの状態になった。
そのタイミングで書家の伯父が祖母と一緒に住んでくれることになり、まずは一安心できるようになったとともに、特に今まで交流のなかった伯父と話すようになった。
名古屋のプロフェッショナルなフォトグラファーたちからグループでの写真展にも誘っていただき、いろんな作品を撮った。
スタジオ勤めの時にはチャレンジしようとも思っていなかったコンテストものに出してみようと思い、APAアワードに入選。
独立と震災でまったく仕事がない状況でフィルムを買うのも大変だったが、知人や恩師に恵まれたこともあり、紹介で少しずつお仕事をいただけるようになった。
名古屋でかつカメラマンには必須な車も買い、高校時代のバンドも再結成した。
10数年ぶりにギターを弾く。生活面から初心に戻ってみた。
ひょんなことから、映画「ガール」のエキストラでスチールカメラマン役をお願いされたりすることもあり、あまり今まで経験したことのない一年だった。(ほとんど映ってないけどクレジットに名前載せていただけて嬉しかった)
APAアワードの授賞式と懇親会に行く。
入選くらいじゃ表彰もないし、ただの興味本位なだけであったが、APA会長をされていた白鳥真太郎さんをお見かけすることができた。
前述の、ボクが憧れた広告写真家である。
勇気を出して懇親会の席でお声がけして、ボクの人生を変えたサントリーの広告の撮影の裏側を聞いてみた。とても親切な方で、怪しく声を掛けてきたこんな若僧にその時の撮影のライティングまで教えてくださった。(緊張してほとんど覚えていないけど笑)
憧れてその道を進めば、きっと夢は叶うんだなと思った。
もちろんそんな大きな存在にはなれないだろうけど、自分を必要としてくれる方々には全力で支援していきたいなと強く思うようになった。
写真というのは、「広告」においてはごく一部のツールで、そこに添えられるコピーや全体のデザイン、媒体によって完成し、消費者の目に届く。
だからこそ写真以外のツールにも気を配り、創っていく。
結果、DMやポスターも(もちろんデザイナーさんなどに協力してもらいながら)創るようになり、「広告」として意味を持つものを一貫して創ることができるようになってきた。
スタジオ勤めしていた時のようなビッグな案件ではないけど、ひとつひとつが嬉しく、改めて仕事に大小は無いと分かった。
この50ミリブログを含め、NoThrowのWebサイトを気に入っていただいた方から、ホームページ制作のお仕事もお願いされるようになった。
ホームページは1枚もののグラフィックとは違い考える領域が広く難しい仕事だけど、常に成長できるところと即時性が気に入っている。
売り上げだけではこの仕事は測れないけど、1年前に比べると少しはマシな生活ができるレベルになった。
昔から行きたかったフジロックにも行けるようになった。
このホームページ経由でご依頼いただくことも増え、企業さんの様々な課題を解決するようになってきた。写真教室やコンサル業もはじめ、いろんな角度からお客様と接することができてきた。
Webの力はすごくて、全国からお問い合わせをいただく。
NoThrowを立ち上げて3年ほどだが、ほぼ日本一周したんじゃないかというくらい全国をまわった。
企画を考えたり機材や車のメンテナンスしたり、いろいろ大変だけどありがたいことです。
東京にもよく行く機会があり、仕事ついでに改めて東京という街を歩きながら撮るスナップもすごく楽しくなった。
書家の伯父に誘われ、「おくのほそ道」を題材とした展示に参加。
旅する自分にとってはもってこいのテーマだった。
損得考えずに創る作品もとても楽しい。
でもそれ以上に、ホームページや広告を作らせていただいた企業さまより、「評判が良くなりました!」「集客できました!」と直々に報告をいただく機会が多くなってきたことが本職としてとても嬉しい。
数年前にはなかった感覚を実感している。
まだまだ発展途上。この気持ちを忘れずに、写真や広告といったクリエイティブが世の中の役にたつということを広げていきたいと思います。
社会人になってから、ITにおいてもクリエイティブにおいても「企業の経営をよくする」という仕事に関わっていることに変わりないけれど、様々な手段が増え、仕事に対する気持ちが変わってきました。
というわけで、2013年末、いまは此処にいます。
時代の流れも速く、きっと、主に「写真を撮る」という手段だけで携わることはおそらく数年でなくなると思います。
ただ、手段はともかく、「いかに頼ってくださった企業さんを良くするか」という仕事は生涯変わらず努めていきたいと思っています。
プライベートでフィルムが買えるように頑張らないと。笑
こんな長い文章をお読みくださりありがとうございます。
2014年はこんな自分にも子どもが生まれる予定。
また新しい年表がはじめるのかもしれないですね。
「写真と広告」事務所ノースローは、
ほぼ、広告写真家/中小企業診断士である佐治の趣味のサイトです。
お仕事のご依頼・お問合せ等は
オルタナクリエイツよりお願いいたします。